鹿児島でアレクサンダー・テクニークを学ぶ

2020年からアレクサンダー・テクニークを教えています

Sleeping Beauty が茨(いばら)姫だった件

教師養成コース第1週目を終えて…

(2017/01/16 Facebookより転載)

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Alexander Technique のワークを
金曜から月曜まで 延べ14時間ともなると
たった4日とはいえ カラダが蠢きます
 
そんなにやれば きっと良い方向へ…かと思いきや
骨盤やら踵やら 腿やらが
痛いだの 気持ち悪いだのと
「残念なお知らせ」を
ガンガンよこしやがります(爆)
 *もうすでに 先生にやられた右腸骨のあたりが
  イタミに襲いかかられてる(涙)
 
この状況に
『くそっ!こいつら なんのつもりだ?』(怒)で
つよくリアクションしちゃうと
動物には一択の実装能力で
人間にも備わってるはずの ”最強の調整能力"
プライマリーコントロール!は 起動しないまま
カラダに しまいこまれています
 
プライマリーコントロール
とてもデリケートな恥ずかしがりやさん…
こっちが 長年 いらんことばかりしてきたから
【習慣】という名のソルジャーに守られてて
いつも ヤツらが わらわらと出張ってきて
おかしなことになってしまう
 
先生がおっしゃるには
「根気よく 静かで エレガントな 意識態度」でないと
プライマリーコントロールは お出ましにならない
 
『まったく どこの深窓のご令嬢かよ…』
 
Sleeping Beauty を舞踏会にお誘いするべく
【習慣】との和解交渉に臨むオトナたちが
昼間っから 膝を立ててフロアーに横たわるワーク…
それがAlexander Techniqueだ!(爆)
 
寝そべってるだけなんだけど
わたしが受けたすべてのワークやセミナーとは
まったく「筋違い」のラインにあります
 
にているようで でも まったくちがう
 
そう…森の奥に眠るSleeping Beauty が
なんとPrinceだった!…くらい ちがうよ〜♪
 

なぜアレクサンダー・テクニーク は、全身のあらゆる機能を調整するのか?

 これはATを学んでいて、先生にはわからないと言われても、どうしても気になっていました。

 さとう式リンパケアの佐藤青児氏によれば、口腔には以下の5つの機能があり、筋機能は口腔から全身に及んでいるとのことです。

【5つの口腔の機能】YouTube
 ① 咀嚼嚥下の消化機能
 ② 呼吸機能
 ③ 発音言語機能→脳機能
 ④ 要らないものを吐き出す 扁桃を含む 免疫機能
 ⑤ 咀嚼嚥下、呼吸を含む全身に繋がる筋機能

 
 俳優だったF.M.アレクサンダーが「意識的自己調整法」に至るきっかけになったのは、彼自身が声を失いかけた3番目の発音言語機能の不全でした。彼は自分のカラダを観察し考察し試すのを繰り返すうちに、ひとには「自己調整機能」(プライマリーコントロール)があるのを見つけました。
 このプライマリーコントロールの発見の意義は、佐藤 青児氏が示す【5つの口腔の機能】と同じです。ホントぴったりです!
 
 たしかにAlexander Technique(意識的自己調整法)を身につけると、自身の営みのあらゆる面がポジティブに機能しはじめます。
 ほとんどの教師はその機能を自ら体現し体感し、hands-onで生徒に伝えられはしても、それがなぜそうなるかをいまだに説明出来ないでいます。(それがアレクサンダーの死後のATを、多種多様に混乱させているとも言えます)

 わたしはATを学ぶ以前から、ヴァイオリンの生徒さんが伸ばした舌の長さや舌の置き所で、運動機能や学習能力や感受性にさえ違いがあるのを知っていました。ただしこれらを改善しようと試みても、本人が変えようとしなければ、なにも変わらないのもよく知っていました。(当時さとう式の耳たぶ回しをいくら勧めても、みなさんやらなかった…わたしはやってたけど…笑)
 
 ATとさとう式リンパケアは口腔機能の改善という点では同じですけれど、ATのアプローチは「自己の再教育」であって、ケア(医療的・心理的援助)ではありません。
 でも理論(科学)があるのとないのとでは、ATであろうと足元を照らす明かりはある方がいいんじゃないかな?
 少なくとも教師側の体験や経験を、もっと豊かな考えにしてくれると思います。理論(科学)はひとを縛るものじゃなくて、そこからさらに発展させもっと自由になるための「プラットホーム」なのですから…♬

 

こっちを卒業レポートにすればよかった?…わたしの考えるAlexander Techniqueとは

ちょっと喉が痛くてゴホゴホしています。

 

 昨日はAlexander Technique 11月の最終授業でした。月末には奈良で集中ワークです。

 金曜からの四日間、自分のカラダを観察していて、脊柱や肋骨や骨盤のグニグニしたねじれが、何度も意識に浮かび上がりました。そうなるとここまでやり終えてきた、カラダのポジティブな関係性が一旦崩れます。

 この3年の間、こういう風に再構築したカラダの関係性を壊し、また関係性を編成し直すのを何度も経験しました。

 今年の1月も風邪のような感じで、風邪をひいたのか無意識に風邪を利用したのか、そのあたりの無意識の駆け引きはよくわかりませんが、強い変化なのは同様です。

 あのときも嫌になるくらい、カラダのねじれや歪みを認識した覚えがあります。おそらく読んでるひとには「それが何なの?」だと思います。

 

 3年前と現在では何が違うかというと「生々しいカラダ」を感じられるようになった…くらいです。

 それは自分の認識で自分の脳がカラダを変えてくれるのを、何度も繰り返ししていくうちに、認識と実際のカラダがだんだん噛み合っていく経験です。そこに「思考」を介在させると、脳は認識をやめて「生々しいカラダ」は意識から消え失せます。

 じつはAlexander Techniqueは、自分で自分を調整するのを目的としています。ですから「意識的自己調整法」と呼んだほうがいいかもしれません。

 わたしは意識を「思考・感覚・感情」3つに分化して、3つの要素の調整がAlexander Techniqueの自己調整だと思います。リアルなアタマ(頭蓋骨)はひとつですが、意識は曖昧ながらも分けられると考えたいのです。

 しかし一般的な意識の認識には、せいぜい顕在意識と無意識くらいしかありません。

 そして実際の意識的自己調整では、リアルなカラダ感覚を通じて、顕在意識を観察し気づきを促します。

 わたしはATが好まれなかったり誤解されやすいのは、”無意識“というロマンやファンタジーをまったく扱わないからじゃないかと思っています。(ロマンの語源はロマンスで物語りの意)

 顕在意識にはほとんどロマンの要素はありませんから、ATはひたすら地道なワークですね。おもしろさは、実際にワークを重ねて実践していくとだんだんわかるんですけれど、時間が必要です。

 おもしろいかどうかはいまは別にして、ワークを重ね顕在意識と現実のカラダを扱っていくと、“自分の意識の背景”つまり無意識につながっていけるのです。回り道でも自分のカラダを通して無意識を見ていきますから「嘘がありません!」し、もちろんロマンのカケラもありません。見たくなかった自分にも出会えます。それもまた、興味深くおもしろい体験なのです。

 

それにしても、仙骨とその周辺が頸椎のAO関節に連動してイタい(涙) この2カ所の関係性は強いから、風邪ウィルスを利用してるんだろうなぁ♪

 

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トレーニングコース卒業レポート…ただし初稿

Alexander Technique Training Corse(教師養成)の、

3年間1600時間もいよいよ来月で終わります。

卒業に際して書いた4通りのレポートの初稿…

水星逆行初日で加減が効かず、がりがり綴った思いの丈は、

やさしさ不足のversionでしたので、

全体公開設定で、こちらにアップしときましょう(笑)

オブラート抜きなので、最速2時間仕上げ!

 

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 こころとカラダへの興味は、わたしが音楽をやっていたからだけではないように思います。

 音楽大学在学中、右腕が腱鞘炎の一歩手前になってしまい、医者は休めと言い担当教授は故障は珍しくもないと言い、つまり誰もわたしの事情を考慮したアドバイスは出来なかったのです。それなら自分で考え対策を講じるしかないと決心したときが始まりでした。

 その後仲のよかった声楽専攻の友人に、カルチャーセンターのヨガ教室に誘われました。友人は早々に辞めたのに、誘われたわたしの方がすっかりはまってしまいました。意識とカラダを認識するきっかけは、卒業間近までのこのヨガ体験でした。

 運動といえば鍛えたり根性で乗り越えたり、あるいは勝ち負けの価値観が苦手で大嫌いでした。ところがヨガ体験ではあくまで個人のペースで、調子がいい日もあればそうでない日もあるし、ゴールはあって無いような世界でした。伊豆の沖ヨガ修道場の先生が担当していたヨガ教室は、いま考えると単純にアサナを行うだけでなく、ビギナー向けにしてはこころの在り方や食養生やフーレセラピー(足踏み療法)など、コアでディープなカリキュラムでしたから、ヨガ修行の片鱗を体験していたと思います。

 そんななかで、わたしは自分のカラダの内側を観察しプロセスを見ていくのがけっこう楽しく、またそういう意識の使い方がかなり好きで、周囲の参加者のなかで上手く感じとれているのに気づきました。

 残念ながら大学卒業後に帰郷してから、続けたいと思えるほどの先生に出会えませんでした。しかし意識とカラダへの興味と関心がその後の探求心に火をつけ、本業のヴァイオリンへのアプローチも、ひととはだいぶ違った道を選ぶことになります。

 


 卒業後ヴァイオリンを教える傍ら、自分のカラダの感覚を頼りに、ヴァイオリンの技術の精査や見直しというか、やり直しを数年にわたって取り組みました。それはどんな高名な教師に教わってもやれることではなく、ちょうどF.M.アレクサンダーが三面の鏡の前で自己観察を始めたときのようにです。

 教師は皆一様に与えたがります。もちろんわたしにもそういう傾向はあります。でも自分を理解し再構成していくのは自分を間引く行為であり、他人には任せられません。最終的に自分が何を選ぶかは自分にしかわからないのですから。

 そしてわたしのやり直しの行動の根底には「教える側の責任」を果たす決心がありました。

 若さに任せて無理矢理にカラダを使っても、多少は壊れにくいのでしょうけれど、限界を超えればやはり病名がつく疾患になります。例えば音楽の師弟は、親よりも濃い「絶対的な関係性を結ぶ」だけに、音楽コンクールの出場者が名前を伏せていても、所作や動きで師事する先生がわかるくらい影響が強いのです。ですから生徒側から教師に、良識や知識の準備を求めていいと思います。

 生徒がカラダを壊してしまったり、誤った使い方で苦労させるのは、いまも昔もわたしの本意ではありません。単純に“いい音になる”とか“上手くやれる”とか、そういう場当たり的な音楽の学びは、あまりにも刹那的で発展性がありません。わたしの手を離れても自立し、自力でなんとかやれる自律した奏法や在り方を最低限身につけて欲しいのがわたしの願いです。

 


 また音楽を学ぶうえで、自分の思いや感情の「意識の背景」に気づくのは、内的感覚と意識を統合するうえでとても重要で不可欠です。ネガティヴな考え方の習慣は、ポジティブな体験の繰り返しで気づきやすくなれます。

 自分のカラダのなかに思考を閉じ込めているときの音楽と、奏法やこころの在り方の望ましいアプローチを経て外へ放たれたときの音楽と、両方を体験し感じ取ると、一回毎の成功や失敗の体験が少しずつ自己評価を上げていきます。そのときようやく自分が何に迷って何につまずいていたかが見えてくるのは、アレクサンダー・テクニークでの学びと同様です。

 ただ「望ましいアプローチ」に至るために、何かを「止める」行為(non-doing)は、トレーニングコースでの最も大きな学びでした。

 抑制によってdoingとdoingの間のnon-doingに、何もしていないはずなのに「なにかが起こっている」…新しいエポックです♬

 

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情報をできるだけまぜない生き方

Alexander Techniqueは、

「意識とカラダのレイライン」を明確にするワーク…だ!

 

 

自分のレイラインを明確にするには

まわりを見て聞いて感じて

リアルな空間に感覚を射出する!

 


脳はソナー(魚群探知機)のように

現実の空間にあるものに意識(周波数)を放ち

反射で返ってきた振動圧で

脳でカラダの内的な空間感覚を感じている

 

このようにしてリアルな感覚で

「意識と現実のカラダをつなぐ」

正しく「意識とカラダのレイライン」となる

 

脳は、現実(ここにある)と仮想(ここにない)を

はっきり区別できていない

 


脳が  感覚を放ってリアルな空間を捉えた瞬間

意識に現実のホントウのカラダが立ち現われ

脳は  意識とカラダで「ここにある情報」を受け取れる

 


それ以外は 偽の虚構の幻想の“情報”に 意識だけが生きて

カラダは完全に切り離され 置き去りになっている

 


カラダから切り離された意識は混濁し

雑多な情報に惑わされると

それでどこか苦しく 重く辛くなる

 


だから「意識とカラダのレイライン」をつなぎなおせば

ホントウの情報はシンプルで生き生きとして

楽しさとよろこびに満ちているとわかる

 

Alexander Techniqueのワークは

そのたすけとなる♬

 

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