鹿児島でアレクサンダー・テクニークを学ぶ

2020年からアレクサンダー・テクニークを教えています

意識とか 気をつけるとか 肯定感とか…

”意識”ということばを発して
「自己を明確化している自分」を思い込んでるのって
ざらにあるよね


 
そういうひとに ちょっとカラダをうごかしてもらい
「いま カラダは なにを感じた?」と問えば
たいてい しどろもどろに…
 
”気をつける”も不明瞭な自分を覆い隠し
相手から自分を見えなくする便利なことばだ
 
そんなわけで ヴァイオリンのレッスンで
”意識する”とか”気をつける”が発せられたら
「いったいなにを?」と 笑いながら追いつめる(鬼だな〜)
  
たいていの相手は その「なに?」が答えられなくて
わたしは わたしで
なぜ質問の意味すら届かないんだー!と悩んだ
 
届かなかったのは わたしの思い込みで
「なにかをしている自分を観察してる自分」を
みんな もってるはず!と 勝手に信じて
決めつけてだけなんだけど…
みんな 全然ちがってた(涙目)
 
”自分を観察するモード”に
卓抜した子どももいれば
なにそれ美味しいの?なオトナもいる
(前者は老成し 後者は幼い)
 
そして わたしはといえば
楽器を弾く訓練で この”モード”が育ってた
 
このモードは みんな生まれもったプログラムで
プレインストールされているから
年齢を問わず ”訓練すれば ”標準装備になる
 
あとは「自分を観察するモード」の訓練を
やるかやらないかだけど
オトナの「自己観察」は
オトナは 自分の時間を積み上げてきただけに厳しい
 
過去の経験や習慣の障害に気づくより
(あたりまえなんだけど)
自分の感性や感覚を疑わず 信じ切っている
 
それは自己否定の態度に表れもすれば
依存的な人間関係に表れもする

つまり「生存するための自己肯定」によって
どうにか生かされるようになっていれば
それがその人なりの ゆるがない真実なのだ
 
だから「自分を疑う」ことはむつかしく
その先にいる自分に 恐れおののくのだ