鹿児島でアレクサンダー・テクニークを学ぶ

2020年からアレクサンダー・テクニークを教えています

神々の座するところ…

年末にベートーヴェンの第九は
もはや 季語にしてもいいんじゃないかくらい
日本になじみすぎてます


有名な合唱付きの第4楽章は
既存の概念なんかクソ食らえとばかりに
ベートーヴェンが求めた限界を超えた表現は
歌い手の喉もとを絞め オーケストラを追いつめ
己が身を燃やしつくし神々を讃えよ…みたいな
熱狂と狂乱に満ちています
(最終ページとか どのパートも鬼ですね)
 
そしてシラーの歌詞のいう愛は"友愛"=フェリアで
その愛はアーリア系のゲルマン民族に向けた限定の愛で
私たちが思うような隣人愛でも人類愛でもないんです!
 
ヨーロッパの歴史文化からすれば
友愛の限定なんて"差別"でもなんでもない
ごくあたりまえの意識背景と感情でしょう
 
ここからは私見なんですが
積み重ねてきた3つの楽章のテーマを
第4楽章で ことごとく否定し
"ことば"を排した絶対音楽交響曲
ベートーヴェン
初めて"ことば"を落としてみた
 
彼は歌ではない "ことば"を楽器にして
絶対音楽と"ことば"を共闘させたったんじゃないかと…
 
オペラや宗教曲や歌曲みたいに
人間の感情に仕え奉仕する"ことば"でなくて
"ことば"のもつ精神性を さらに純化すれば
オーケストラと共闘できる可能性を意図し
実現してみたかったんでしょう
(ベートーヴェンは いつも何かと闘ってた人だし)
 
その第九を 年末の日本で歌い続けるひとたちは
なんか「人間やめました」みたいな
非人道的な扱いと要求を
何度突きつけられようと 果敢に立ち向かい
自分の声を花火のように打ち上げて舞いあがり
はるか高みの神々の座する 永遠の瞬間を求めて
ことしもまた集うのでしょう
 
こうしてベートーヴェンの意図した愛は
はからずも 音楽を超えて 海を越え
この日本で つづいていると思うと
なんかちょっと感動しちゃわない?
わたしは するんだけどね
 
オペラの聴きすぎで
感情を絡めすぎたことばと音楽の応酬に疲れ
ちょっと荒ぶってしまいました(笑)