F.M.アレクサンダーの問いかけ
世間では右脳を直感的に左脳を理論的にそれぞれ役割を担うと言われているが、わたしにはひとの思考や行動を単純に右脳と左脳に振り分ける考え方には多少違和感がある。
しかしこれにはどうやら医学的には血液型による性格診断や心理的傾向のように、科学的な根拠やエビデンスはないようだ。
もしかしたらこうした紋切り型の結果に自分をすり合わせるのは、ある種の連帯感や帰属感を得て安心したいからなのかもしれない。
そういうのはさておき、先日の授業で閃いた気づきは、ひとはカラダの左右には言及するが、自分の前後と上下については、普段はまったく無頓着だということだ。
確かにカラダは左右対称に同じ器官が多くあるから、それはあたりまえでなんでもない。二足歩行なんて、左右の足を交互に協調させた運動機能だ。
F.M.アレクサンダーが自身のカラダを検証し、たどり着いたのは、
①クビとアタマを自由にさせる。
②アタマは前へ上へ。
③セナカは長く広く…だけだ。左右について、彼は触れていない。
この3つの一連の内的衝動(だとわたしは捉える)が、唯一にして無二のAlexander Techniqueの技法のすべてと言える。
これらは、とてもわかりにくい。いまだに世界中の教師と生徒を惑わせている。
F.M.アレクサンダー自身が示したこれら指標は、テクニークを曖昧にしか表記していないと誰しも思うだろう。だからこの順序(!)に則ってアプローチすればよいのではないだろうか…とか…。
しかしおよそ1000時間の授業を経てわたしが考えるのは、
F.M.アレクサンダーが生徒にしてほしかったのは、①のクビとアタマを自由にさせる…
だけではなかったか?という疑問だ。
それでは②と③はなんなのだろうか。
これらのF.M.アレクサンダーの曖昧な表現には、彼自身が仕掛けたトリッキーな罠があるように思う。
それは罠というより、明確であからさまな意識状態下では、カラダにあるべき感覚知や起こるべき内的運動の密やかさを、一瞬で殺してしまうと、彼は誰よりもわかっていたのだろう。
だからF.M.アレクサンダーは表現から明確さを割り引いて、指標をわざと曖昧にし、読む者に謎を投げかけた。それこそが、後世この技法に取り組む者たちへ彼が仕掛けた、最高ののセキュリティーで最上の救済となっている。
Alexander Technique はわかりにくいと言われるが、わたしはそれは少し違うと思う。わかりにくいのは、取り組もうとする者がわかりにくくしている。
Alexander Techniqueを正しさの定義にしようとしても、正しさなんてそもそも“どこにもない!”という答えだけがある。
いまもF.M.アレクサンダーが問いかけいるのは
「君は、みえてる?きこえてる?かんじてる?」だけなのだろう。