鹿児島でアレクサンダー・テクニークを学ぶ

2020年からアレクサンダー・テクニークを教えています

感覚と考えと言葉と…

先日 奈良でAlexander Techniqueの集中ワークを受けたとき、
ひとは自分が受けた感じや内的感覚すら、言葉でしか表せないし伝えられないんだなぁと、つくづく考えさせられました。

 

たしかに音楽活動は“言葉”を超えた領域に精神を持っていける、素晴らしい行為です。しかし練習や理解のために、楽曲を詳らかにし再構成に及ぶ練習をするには、内的な思考つまり“言葉”でしか作業できません。

 

例えば「感じ」という言葉を大辞林で見ると以下のようにあります。
かんじ【感じ】
①外界の刺激によって生じる感覚。「指先の━が鈍る」
②物事に接して感じたこと。印象や感想、感触など。「夢を見ているような━だ」「━が悪い」
③そのものらしい味わいや雰囲気。「効果音で祭りの━を出す」

 

このように「感じ」のひと言についても、これだけの背景(バイアス)があります。
ましてや音楽する状況において、自分の意識の背景にある思考や態度を「感覚の領域」に引き上げるには、どうしても“言葉”の助けなしには精神はそこに行き着けないのです。

 

しかし“言葉=考え”は“感覚”よりもずっと重たく、感覚より速く「意識を占有」する性質があります。
そうなると自分の思いが、“考え”寄りなのか?“感覚”寄りなのか?…ついには感覚では、自分がどこに立ってるかすらわからなくなります。(そういうぐるぐるしてるときは、“考え寄り”です)

 

こういうときグルジェフのいう物質密度と振動密度のスケールを持ってると、自分の立ち位置が見えてくるのですごく便利なんですけどね…。
それが面倒ならスマホに辞書アプリを入れておくといいです。(分厚い辞書を持ち歩ける幸せ!)

 

ひとは言葉でしか精神活動が行えません。言葉の意味と背景=バイアスを詳らかにし、正しく認識するように心がけていると、思考>感覚だった言葉の扱いが、思考<感覚になります。

 

お終いにひと言申し添えるなら、常日頃の精査なしに言葉を感覚で扱えるようにはなれません。考えの対極の感覚を得るには、言葉を味方につける精神活動がなにより必要です♬

 

せいしん【精神】
㋑心の本質・本体。感覚や情念などのはたらきとは異なる高次の普遍的性質をもち、理性・理念・意志・愛などの主体となる一方、非個人的な実体として世界の秩序やその形而上学的原理ともされる。

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アレクサンダー・テクニーク 春の集中ワーク

日本アレクサンダーテクニーク 研究会では、春と秋の年二回、奈良で集中ワークがあります。

去年に引き続き、今年も四日間、鹿児島校の全員が無事に参加できました。

写真はチェアーワークと呼ばれるATの代表的なワークで、シンプルな動作のなかにATのあらゆる要素が見てとれます。

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ここで誤解しないでほしいのは、ATはある動きができるように、あるいはそのやり方がわかるように、あるいは自分の考え方にコミットするように、目的を達成するように、「なにかをするために」自分を整えたり意識を変えたりだけではないのです。

 

わたしたちは日々アップグレードしてはいません。
むしろ生まれたときから日々ダウングレードしていて、ある日突然それに気づき、驚き慌て悩み、深刻になれば怒り憂うつになりあるいは絶望するでしょう。

 

ダウングレードするのが変えられない宿命なら、日々タスクとキャッシュメモリーをクリーンにし、「アップデート」でジョブを整えられたら、わたしの人生からリスクは消えなくても、小さくはなります。

 

リスクが少ない生き方は、自分で自分を元気づけられ日々を楽しくします。でもそれだけです。それ以上はありません。
ATは、自分を大きいなにかにしてくれません。むしろその逆です。
ただ自分がごきげんになれます♬

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タスク〖task〗
①課せられた仕事。課題。
②コンピューターで処理される作業の最小単位。→ジョブ

キャッシュメモリー〖cache memory〗
コンピューターの記憶装置の一。処理を高速化するために、何度も使われるプログラムやデータを一時的に保持する機能をもつ。
(キャッシュ〖cache〗隠し場、貯蔵所の意)

アップデート〖update〗
コンピューターで、ファイルに記録されているデータを新しい内容に変えること。更新。

ジョブ〖job〗
①仕事。作業。
②コンピューターの仕事の単位。一連のプログラムの流れで一つのまとまった業務。

定数を変数に変えるワーク

昨年末以来のブログ投稿ですが、Facebookからの転載です。

 

わたしが教わってるAlexander Techniqueはマクドナルド派だそうです。流派があるなんて、茶道の世界みたい…(笑)

 

もちろんコングレスとか行ってないし、知ってる教師は3人だけです。だからどういうのがAlexander Techniqueのスタンダードなのか、わたしは知りません。

それでも、いま学んでるのがスタンダードではないんだろうなぁ〜くらいは、わたしでも想像がつきます。

つまり以下は、わたしの解釈と見解にすぎないのを始めにお断りしておきます♬

 

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4日間のAlexander Techniqueのレッスン4月2週目が終わって、昨夜は倒れ伏すように眠ってしまいました。

洗濯機回してる間、ほんのちょっとが5時間とか…その後も、またぐっすり眠ってトータルで12時間、まだまだ眠れそうです。

昨日の4日目はなにをやったかというと、「意識の分離と統合」と「Hands-onでの立ち座り」の2つのワークだけです。

3年前は魔法みたいに見えたこの動きを、自分の意識と内的な動きでやれるようになって、まぁそれもやってるわたしたちは「なんかできちゃったよ!」ですごく不思議なんです(笑)

 


「Hands-onでの立ち座り」のワークは、“変性意識”にある教師の手で生徒に触れて、生徒の内的な筋肉が自発的に動くよう働きかけます。その意識の調整力を養うために「意識の分離と統合」をワークします。

これらのワークは、いずれも「意識=脳内活動のスペックとバイアス」を最大限に上げます。

まず感情/思考/感覚/動き(カラダ)の意識の4つの要素を引き離し整理し、つぎに隣り合う感情⇆思考⇆感覚⇆動き(カラダ)4つの要素のあいだを、「意識の重心点」が自在に行き来できるように、自己を再構築し調整能力を身につけます。

つまるところAlexander Technique は「高次の意識領域に脳の周波数を引き上げ、自在に調整する」のが、本質だったわけです。

Alexander Techniqueが音楽家やダンサーや俳優やアスリートに支持されるのは、「ゾーン意識」とパフォーマンスの関わりを、彼らは経験的に知っているからです。

 


脳の活動を定数から変数へ一気にシフトアップ(振動)するとき、そこにカラダ(物質)を連れていくにはタイムラグが生じるため、長い睡眠が必要なのでしょう。

 

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AIが世界を席巻するとき…来るべき定年後の世界

僕の足を引っ張らない社会を作る――ホリエモンが演劇をアップデートする理由http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1812/15/news014.html#utm_term=share_sp

 

AIの時代が暇な定年後をつくる…そんな余暇を埋めるにはなにをすればいいかを、ホリエモンは模索しているようです。

ひとが自分が生きてる実感を得るのは、カラダを通して“外界と交流”したときだけです。いくらAIやVRが発達しても、自分の感覚の代わりにはなりません。自分の喉を通るから、夏のビールは美味しいんです。どうしたってバーチャルはパチモンでしかありません。

そこでホリエモンは、カラダを使う“演劇”に目をつけたんですね。(いつもながら目のつけどころが鋭いな)

 


さてAlexander Techniqueは、まさに“外界との交流”で意識とカラダをつないで、自分で自分を見つけていけるワークです。おまけに膨大な時間を消費します。

しかしアレクサンダーの教師はこのワークを、わかりにくいし時間がかかるから大勢に広がらない!と諦めています。

なんでやねん!わたしは逆に、これからの時代にこそ求められると考えたいのです。

だってAIがひとの仕事を担うようになったら、暇な定年後を真剣に生きるには、もう「自分探し」しかないんじゃないかと思うんです。

Alexander Techniqueはチャラっとやれちゃうワークじゃないから存分に暇をつぶせて、おまけに健康なココロとカラダが手にはいるんですよ。

それに生活全般からスポーツ芸術活動や精神世界にいたるまで、すべての分野でパフォーマンスをあげられる凡庸性の高さは、ほかのどんなワークにもない特性です。

いつかきっと人びとが爆発的に求めるようになる!

…ってのは、まだ先生にはないしょの話し🤫

F.M.アレクサンダーの問いかけ

世間では右脳を直感的に左脳を理論的にそれぞれ役割を担うと言われているが、わたしにはひとの思考や行動を単純に右脳と左脳に振り分ける考え方には多少違和感がある。

しかしこれにはどうやら医学的には血液型による性格診断や心理的傾向のように、科学的な根拠やエビデンスはないようだ。

もしかしたらこうした紋切り型の結果に自分をすり合わせるのは、ある種の連帯感や帰属感を得て安心したいからなのかもしれない。

 


そういうのはさておき、先日の授業で閃いた気づきは、ひとはカラダの左右には言及するが、自分の前後と上下については、普段はまったく無頓着だということだ。

確かにカラダは左右対称に同じ器官が多くあるから、それはあたりまえでなんでもない。二足歩行なんて、左右の足を交互に協調させた運動機能だ。

 


F.M.アレクサンダーが自身のカラダを検証し、たどり着いたのは、

①クビとアタマを自由にさせる。

②アタマは前へ上へ。

③セナカは長く広く…だけだ。左右について、彼は触れていない。

この3つの一連の内的衝動(だとわたしは捉える)が、唯一にして無二のAlexander Techniqueの技法のすべてと言える。

これらは、とてもわかりにくい。いまだに世界中の教師と生徒を惑わせている。

 


F.M.アレクサンダー自身が示したこれら指標は、テクニークを曖昧にしか表記していないと誰しも思うだろう。だからこの順序(!)に則ってアプローチすればよいのではないだろうか…とか…。

 


しかしおよそ1000時間の授業を経てわたしが考えるのは、

F.M.アレクサンダーが生徒にしてほしかったのは、①のクビとアタマを自由にさせる…

だけではなかったか?という疑問だ。

それでは②と③はなんなのだろうか。

 


これらのF.M.アレクサンダーの曖昧な表現には、彼自身が仕掛けたトリッキーな罠があるように思う。

それは罠というより、明確であからさまな意識状態下では、カラダにあるべき感覚知や起こるべき内的運動の密やかさを、一瞬で殺してしまうと、彼は誰よりもわかっていたのだろう。

 


だからF.M.アレクサンダーは表現から明確さを割り引いて、指標をわざと曖昧にし、読む者に謎を投げかけた。それこそが、後世この技法に取り組む者たちへ彼が仕掛けた、最高ののセキュリティーで最上の救済となっている。

 


Alexander Technique はわかりにくいと言われるが、わたしはそれは少し違うと思う。わかりにくいのは、取り組もうとする者がわかりにくくしている。

Alexander Techniqueを正しさの定義にしようとしても、正しさなんてそもそも“どこにもない!”という答えだけがある。

いまもF.M.アレクサンダーが問いかけいるのは

「君は、みえてる?きこえてる?かんじてる?」だけなのだろう。

 

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